カネ吉山本は、大正の末には東京に卸売店を開設、東北・北海道にも販路を拡大し、信用と実積を高め、やがては宮内省(当時:現在の「庁」)御用達をおおせつかるまでになります。
近江牛と歩むカネ吉山本
カネ吉山本が店を構える近江は、古来より農産地としても栄えていました。
中でも近江牛の産地として知られる愛知川、日野川、野洲川の大きな河川のある一帯は、豊かな土壌と良質の水資源に恵まれていて、作物を育てるのに大変適した土地です。農作業にとって、牛は欠かせない存在でした。
近江牛はブランド牛といわれるものの中でも古く、400年もの歴史を持ちます。 江戸時代は近江牛の味噌漬けが養生薬の名目にて将軍家に食されていたといわれています。
桜田門外ノ変と近江牛
第15代将軍徳川慶喜の実父にあたる水戸藩主の徳川斉昭(なりあき)は、彦根藩(近江)より献上される近江牛の味噌漬けを好み、毎回の献上を楽しみにしていましたが、彦根藩主である井伊直弼は、大老になった際にそれまでは許されていた領内での牛の屠殺を禁じ、献上をやめてしまいます。
近江牛の旨さが忘れられない斉昭は、使いを立てて何度も再開を要請するも井伊直弼はまったく応じず、遂には斉昭自らが江戸城で井伊に懇願するに至ります。その荒々しい気性で「水戸の烈公」とまで呼ばれた斉昭が、恥を忍んで頭を下げたのです。
しかし、井伊直弼は、牛馬を殺生するなどとは野蛮人のすることだと斉昭を嘲笑し、断ってしまいます。
これに対して、斉昭の家来である水戸浪士たちは、主君を愚弄し恥をかかせたと激怒し、井伊直弼は暗殺されてしまいます。
この事件が、桜田門外の変として語り継がれています。
活躍する近江商人
日本での3大商人といえば大阪商人、伊勢商人、そして近江商人です。
「近江牛」を扱う商人や職人から飼育農家に至るまで皆が近江牛を近江牛として育て、販売すること、先人が築き上げてきた歴史と伝統を決して汚さないことを大切にしてきました。多くの近江商人がそうしてきたように、「三方よし(売り手よし・買い手よし・世間よし)」 - 「売り手と買い手だけでなく、その取引が社会全体の幸福につながるものでなければならない」という理念と信用を何よりの財産とし、その誇りと感謝を胸に、ひたすらにその意味での「よい商い」ができることを求め続けてきた結果として、「近江牛」を守ってきました。 もしも「自分だけが良ければ良い」「法律さえ守っていれば何をしても良い」「今だけ大きく利益を上げれば良い」などといった者が多かったら、近江牛の名はとうの昔に地に堕ちていたでしょう。
明治以降は近江商人が大活躍をします。
明治22年(西暦1889年)、鉄道の東海道本線が開通し、翌年より近江八幡駅から初めての鉄道を使った牛の輸送が始まりました。
そこでようやく「近江牛」という名が全国に認知され始めます。
しかし明治25年には、朝鮮半島より牛疫が伝播し、生牛(たちうし:生きたままの牛のこと)を輸送することが禁止されてしまいました。
これに困り果てた近江商人たちは、枝肉(一頭の牛から、頭部や内臓などを取り除いた状態のこと)での出荷を始めたのです。枝肉の出荷はやはり近江八幡駅から始まり、その後も工夫に工夫を重ね、やがて「近江牛」の名は全国に轟きました。
同時に、この枝肉での取引という手法も全国に広がっていき、現在では牧場-食肉業者間での取引やセリはそのほとんどが枝肉での取引となっています。今では全国で当たり前になっているこの取引方法は、もとは近江商人たちの「苦肉の策」だったのです。
この時、「カネ吉山本」の創業者である山本竹三良は、近江牛の普及に大きく貢献しました。
明治26(1893)年に創業者の山本竹三良が川魚料理店「納屋吉」を譲り受け「カネ吉」として営業を始め、その3年後の明治29(1896)年冬期に初めて牛肉販売を開始し、近江牛を生牛としてではなく、牛肉として全国に普及させた最初の功労者の一人でした。
当時は冷蔵・冷凍設備のなかった時代ですから、今からは考えの及ばない数々の苦労がありました。
それから昭和の統制経済もあり、戦時中には牛肉の県外移出が禁止され、県外では何れも店を引きあげることを止む無きとされましたが、その後も、地元である滋賀県近江八幡にて、地域の皆様と信頼を築きあげてまいりました。
カネ吉山本のこだわり
近江牛へのこだわり
岡崎牧場の、他牧場と違う点は「長い飼育期間」と「餌へのこだわり」です。
通常24ヶ月〜出荷されるところを36ヶ月以上飼育することで、牛を最高の状態に仕上げ出荷。そして出荷までの1年間、もち米や乳酸菌を配合した独自の飼料を与えることでなめらかな香り高い肉質を実現しています。
ランクや等級ではないこだわり
カネ吉山本はこのようなランクではなく、カネ吉山本内での独自基準に合格した「目利きの肉師」が1頭1頭見定めています。
肉師については こちら